5月1日 復活節第3主日礼拝
「喜ばしき知らせを語り継ぐ」隅野徹牧師
聖書:コリントの信徒への手紙 Ⅰ 15:1~5
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今週からペンテコステまでの間は、「復活」について大切な教えが記されているコリントの信徒への手紙Ⅰの15章から数回に分けてメッセージをとりつぐことにします。今回は1節から3節の前半という大変に短い箇所ですが、キリスト教会が「最も大切なこと」として語り継いだことを深く味わうことを願います。早速、御言葉に聞いてまいりましょう。
今回の箇所は短く、構造的にも簡単です。1節と2節で「福音というものの大切さ」が強調して語られ、3節前半で「その福音を最も大切なこととして伝えてきた」と語っています。
この短い箇所の中で3回も出ているのが「福音」という言葉です。
福音ということばは、もともとのギリシャ語で「喜ばしき知らせ」を表す単語を中国語に訳す時に用いられたものが、そのまま日本語訳の聖書にも使われたことに由来します。つまり、もともと日本にはなかった「主に教会の中で使われる言葉」なのですが…よく「言葉の意味がわからずに」用いられることが多い言葉だと思います。みなさんは「福音」という言葉をどのように捉えていらっしゃるでしょうか。
1節ずつ、聖書の言葉を追いながらお話しします。(まず1節をよみます)
使徒パウロは「福音というものを」ここでもう一度、コリントの信徒たちに伝える!といっています。
コリントの教会は多くの問題を抱えた教会でした。賜物の違うお互いを理解しあうことなく、「自分のほうが正しい、あの人は悪い」と批難しあうというようなこともありました。その結果として、教会の中で「派閥争い」が起こっていたのです。こんな状態では、「教会本来の大切なこと」が思い出されることはなくなり、そして教会がどんどんとおかしな方向に行ってしまったことは明らかです。
そこでパウロは、コリントの信徒たちに、「原点に帰るように」諭しているのです。パウロが当初、コリントの教会を立ち上げたとき、伝えたことは次のようなことでした。
「私たち一人一人に罪がある。でも、その罪を救うためにキリストが人となってこの世に来られ、私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださった。しかも、それで終わりではなく、死を打ち破って復活してくださり、私たちが罪から救われる道を開いてくださった。このことを心から信じ受け入れれば救われるのだ。」
これが喜ばしき知らせである「福音」の中心的内容です。
1節の後半にあるように、この福音を「受け入れた」ことによって、コリント教会は「立ち上がった」のです。「生活のよりどころ」という言葉が出てきていますが、まさに教会が歩んでいくための拠り所が「イエス・キリストによってもたらされたよい知らせ・福音」なのです。
実際に教会は、土地や建物がなければ成り立ちませんし、組織の面でも構成人員や運営上のルールなども必要です。しかし、それら「目に見えて教会を形作っているものも」一体「何を基にして成り立っているのか」ということをパウロはもう一度思い出させようとしているのです。
この御言葉は、現代のそれぞれの教会に向けても語られていると感じます。目に見えて「教会を形づくっている」ものの一つ一つは「イエス・キリストが救いの道を切り開いてくださった」という喜ばしい知らせ「福音」の上に成り立っていることを忘れずに歩みたいです
つづいて2節を見ましょう。(※よみます)
ここでは、「分かる言葉として」「福音」が伝えられたことがクローズアップされます。 キリスト教はよく「言葉による宗教だ」という言い方がなされますが、まさにそういう面を見ることが出来ます。
教会の基となっている福音。これはお経や呪いの言葉のような「なんだか分からないが、ご利益がありそうだ」と人々が感じるようなもので伝えられるのではありません。また、お払いや体に触れるというような、一種「パフォーマンス」のようなもので伝えられるのでもないのです。福音とは「普通に理解できる言葉で伝えられるもの」なのです。
この2節でパウロはまず、「私がどんな言葉で福音を伝えたのか、それを思い出してください」といっています。その上で「これをしっかり覚えていれば救いに至るし、忘れてしまえば、信じたこと自体がむだになってしまいます」と教えているのです。
教会は「普通に理解できる言葉の福音を」その基としている場所です。だからこそ、その「普通に理解できる言葉」を繰り返し、口にすることが大切なのです。
山口信愛教会では、毎回の礼拝説教の後「使徒信条」や「日本基督教団信仰告白」をご一緒に唱えます。なぜ毎回このような信仰告白があるのだろうか…と感じられる方もあるかもしれません。
「使徒信条」に至ってはおよそ1800年前から、ずっと受け継がれてきたものです。その内容は、「理解できる、分かりやすい言葉で、福音の内容を要約した」信仰告白文です。
数百年前に印刷技術が発達するまでは、聖書は「クリスチャン」であっても手に入ることはありませんでした。そんな中で、教会が教会として、道を外さずに歩んでこられたのは「理解できることばで、福音を要約した、使徒信条」を、教会の柱として大切に守ってきたからだ、ともいうことができると思います。
今日の箇所の2節の言葉で「しっかりとこれを覚えているなら救われる」とあります。
罪からの救いは、こんな文を覚えていることぐらいで為されるのか?と思えるかもしれません。しかし今回、私には「シンプルに福音の事実を言葉にする。そしてそれに立ち続ける」ことの重みが痛切に迫ってきました。
いつでも簡単に聖書が手にとれる今の時代と違います。救いを伝えるために、必死に戦ってきたパウロが「こうすれば、あなたたちは救われる」と教えたこと。それが「福音の信仰告白を覚え続ける」ことでした。
私たちは、毎度の礼拝の中で持たれる信仰告白の時、ぜひこの箇所を思い出して、救いのために語り継がれてきた「その重み」を心に留めて告白をしましょう。
最後に3節の一つ目の文を味わって終わりたいと思います。
ここでは、福音が「人から人へ」受け継がれていくものだということが教えられています。パウロが勝手に考え出したのではなく、パウロも「神から与えられた友」によって、まず「受けた」ものを、コリントの信徒たちに伝えたのです。
そして、受けて終わりではなく、それを「伝える」ところに、福音の大切な本質があるのだということを教えているのです。
先ほど、福音は「わけのわからない言葉の羅列」といったパフォーマンスではなく、「分かる言葉で伝えられるものである」とお話ししましたが…「分かる言葉」だからこそ、人に伝えたり、語り継いだりできるのではないでしょうか?
そして、一人一人の中で「福音とは何か」が、自分の言葉としてもたれていたのです。だからこそ、「いかに自分が罪深く弱いものであり神に委ねて生きていくしかないことを教えられました。次の人に伝えること」が出来たと私は理解しています。
それに比べ現代日本の私たちクリスチャンはどうでしょうか?簡単に「福音の言葉が受けられる」状況に甘えてはいないかということを感じます。聖書だけでなく解説書なども手に入りやすいですし、インターネットなどでも、聖書の教理的内容を簡単に調べられる便利な時代です。
しかし!受ける一方になっていて、「福音を自分の言葉でしっかり咀嚼する、その上で伝える」ということができなくなっていることを思います。私自身への自戒として今回、神がしめされたことを受け止めたいと思います。
受けた福音を「人に伝える」。そのためには、「これが福音だ。自分に対し神がくださった喜ばしい出来事なのだ」ということが、自分の中で確固たるものになることが本当に大切です。ここにおられる皆さんが「シンプルな言葉」でかまいません。自分自身の揺るぎのない「柱」として、福音をもたれたときに、それは人へと伝わっていくのだと信じています。
今朝は福音をどう受けとめるかについて、①つ目、福音は目に見える教会の基となっているものであること。②つ目は、「福音は理解できる分かりやすい言葉であること。その言葉を覚え続けることが、救いにつながるのだ」ということ。③つ目は、福音は「受けるだけでなく、伝えていくべきものだ。そのためには自分の中で福音とは何かを、しっかり持っておく必要がある」ということをお話しました。
神がキリストを通して私たちの成して下さった喜ばしき救い業の「大きさ、深さ、重さ」、これを2千年語り継いでキリスト教会は歩んできましたし、私たち山口信愛教会も130年間歩んできました。
この先の方々にも大切なことを語り継ぐことを祈り願いつつ歩んで参りましょう。 (沈黙・黙祷)
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