「キリストの復活と私たちの希望」5/15隅野徹牧師

  月15日 復活節第5主日礼拝
「キリストの復活と私たちの希望」隅野徹牧師
聖書:コリントの信徒への手紙 Ⅰ 15:12~20


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 イースターの後、6月5日のペンテコステまでの主日礼拝ではコリントの信徒への手紙一の第15章から聖書のメッセージを味わうことにしています。これまで、2回に分けて1節から11節までの箇所を皆さんと読みました。 特に、2千年前の初代の教会から今まで、世界中のキリスト教会が大事にしてきたことが3節から8節に表れていました。

神が人間を救うためにこの世に送られた「イエス・キリスト」が、ただ不当な裁判で裁かれて十字架で処刑されて死んだのではなく「人間の罪の身代わりとなるために特別に死んでくださったのだ」ということ。そして「死にかけた」のではなく、確実に死なれて「陰府にまで下られたこと」、そして、ただ「復活して、弟子たちのところへ、そしてキリストを迫害していたパウロにさえ現れて下さった」ということでした。その「復活の命」に生かされたパウロが、神の恵みによって「大きな働きをなしたのだ」ということが記されていました。

このように「キリストの十字架と復活こそが」最も大切なこととして、語り継がれてきました。しかし!今回の箇所の最初の12節に、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と書かれています。

この後くわしく掘り下げますが、洗礼を受けてクリスチャンとなったコリントの信徒の中に「死者の復活はない」と声高に叫んでいる人がいたというのです。これは「キリストの復活と、人間の復活は関係ない。キリストは全知全能の神の子だから復活したかもしれないが、自分たちは死んだらそれで終わりだ。だから生きているうちに楽しめばそれでよいではないか!」というような言葉が飛び交っていたと言われます。

私たちはどうでしょうか?まず「神の子イエス・キリストの復活」について、それをどのように捉えているのでしょうか?そして「自分の命」とどうつなげて考えておられるでしょうか?

つい最近、私たちは教会の大切な姉妹を天にお送りし寂しさの中にあります。しかし、ただ寂しいという思いを持ち続けるだけでなく、「一人ひとりにとっての永遠の命、復活の命」を深く考える機会となればと願います。 今朝の礼拝を通して、そうしたことを神ご自身によってお一人お一人に語られることを信じています。御言葉を味わってまいりましょう。

まずコリント教会に起ってきていた「死者の復活などない」という主張の中身が分かる12節から16節を読みます。

先ほども申しましたが、コリント教会の中に起ってきていたのは、キリストの復活はなかった、という主張ではありません。そうではなくて「キリストの復活は事実として信じるが、死者の復活は信じない」という主張だったのです。

「死者」というのは、キリスト以外の私たち一般の人間のことを指しています。この地上において永遠に生きることができる人はいませんから、私たちはいずれ「死者」となります。そんな私たちが、終わりの時に、復活して永遠の命にあずかる、それが「死者の復活」です。

何が問題かというと、復活が「心の中のみの事柄になってしまっていること」です。復活を心の中の事柄にしてしまうことによって、将来の具体的な希望として自分の実際の復活を待ち望むことがなくなってしまうところに問題があるのです。

 パウロはコリントの信徒たちに広がったこの主張に対して答えます。13節と16節で「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」といっています。キリストの復活と私たちの復活とは切り離すことができないものであり、両者は神のみ心において結び合っている、と言っているのです。

来週の箇所で詳しく語りますがキリストの復活は、「私たち自身の復活の先駆け」であります。何度も繰り返すようにして「すべての死人たちを復活させるために、神がキリストを死者の中から復活されられたのだ」と力説しています。そのことによって特別にもたらされる「私たち自身の復活の恵みの業」によって「救いの完成」があるのです。

14節と17節に、キリストの復活なしには、私たちの宣教も、信仰も、全ては無駄なことになると語られているのはそのためです。罪からの救いは、「私たち自身の復活」がなければ成り立たないのです。

さて…このことで私たちが考えたいことがあります。それはキリストの十字架の死による罪の赦しだけで救いが実現しているように感じてしまうことはないでしょうか?そして「復活はあってもなくてもどちらでもよいのでは?」と思ってしまうことはないでしょうか?

しかし先週、先々週の箇所を思い出していただきたいのですが、教会が「最も大切なこと」として宣べ伝えたのは、神の独り子イエス・キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、そして多くの人々に現れて下さったことです。キリストの十字架の死と復活の両方があって私たちの救いが完成することが、伝統的に語り継がれてきたのです。

とくに復活は、先ほどから繰り返しているように「いつか必ず死んでいく私たちが、終わりの時に復活の命と体を与えられる」神の救いの業の完成です。キリストの復活は、私たちにこの救いの完成を約束し、保証します。だから「復活」を抜きにした信仰があるのだとすれば、それは大変空しいものになってしまう」のです。

 復活だけではなくイエス・キリストの十字架の死による罪の赦しも「成り立たなくなる」のです。17節後半をご覧ください「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」とあります。

罪の赦しは、私たちが心の中で自分の罪は赦されているんだと思うことによって安心や平安を得ることではありません

単に精神的面の安定をもたらす、心の中だけの救いを与えるだけなら、イエス・キリストが肉体をもってこの世に来られる必要はなかったし、十字架にかかって死ぬ必要もなかったし、復活も必要なかったのです。

私たちは、肉体をもってこの世に来られ、十字架にかかって死んで下さり、そして復活された救い主イエス・キリストと、洗礼において一体とされ、終わりの日に「体がよみがえって」永遠の命にあずかる救いの完成を待ち望みつつこの世を生きているのです。

このメッセージのあとに唱える「使徒信条」の最後に「我は聖霊を信ず」のあと、何と告白しているかを思い出してください。「聖なる公同の教会」のつぎに「からだのよみがえり、とこしえの命を信ず」と唱えています。

この「からだのよみがえり」は、キリストのことだけではなく私たち一人ひとりの「からだ」が天の御国において「罪のない完全なからだとして、よみがえり、永遠に生きる」ということを言っているのです。

からだのよみがえりがあるからこそ、私たちは罪からの救いが完成する!そのことを覚えていましょう。

さて、最後にパウロが手紙を当てた「コリント教会の信徒たち」が、「死者の復活などない」別の言い方で「からだのよみがえり」などない、といったのか、その背景を学び、とくに19節から大切なことをご一緒に考えて、メッセージを閉じたいと思います。

彼らは、死者の復活などあり得ない、と言っているのではない、ということを今回私は詳しくしらべていて知りました。どういうことかというと…コリントの街は栄えた港町である一方で「大変に風紀が乱れた町」として有名でした。

来週の箇所の32節にも表されていますが、「人生で快楽を与えるものはこの世にいくらでもある」という考え方から「からだのよみがえり?永遠の命?別にそんなものはいらないよ。」というような感じのニュアンスで物を言っていたと理解されています。

私たちはどうでしょうか?便利な世の中、割と何でも手に入ると錯覚するような今の日本の世の中に生きています。風紀は乱れていないと感じるかもしれません。でも当時のコリントの町の人々のように「今の人生で得られているもので十分だ。満足だ」という思いから先に進まない、そんなところはないでしょうか?

もちろん今与えられているものに満足し、感謝することはとても大切です。しかし!今この世において与えられている様々な恵みは、「終わりの復活の時に与えられる恵み」とは比べ物にならない、と聖書全体が教えていることを忘れてはならないと思います。今現在、感謝が満ちあふれている日々を送れていると感じていても、それは「将来与えられる恵みのほんの一部を、味見しているに過ぎない」のです。

19節でパウロは「キリストを信仰して、この世の歩みを平安のうちに歩めばそれだけでよいではないか。死んだ後の復活とか永遠の命などということはどうでもよい」というような生き方が、全ての人の中で最も惨めな生き方だと声を大にして言っているのです。

キリストを信仰してて生きているとしても、そこで見つめているのが「この世の生活」のみで「復活や永遠の命に望みを置いていない」のだとしたら、それは本当の惨めだ!絶対にやめてほしい生き方だ!と強く教えているのです。

キリストを信仰することによって「この世の人生をどれだけ豊かに、有意義に立派なものにすることができるか」は大切なことではありません。神が私たちを救うためにこの世に送って下さった御子イエス・キリスト。このお方を信仰するとは、十字架と復活の恵みに自分も与り、罪を赦し、復活の希望を与えて下さったことを信じることなのです。いまはこの世にあって苦しみ悩みがあります。自分のからだが「罪のない、きよい完全な体となってよみがえること」も完全には捉えることができません。しかし、将来の復活の希望を抱きつつ、毎日を歩んでまいりましょう。 (祈り・黙想)

 

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