「私達のために祈ってください」5/14 隅野徹牧師

  5月14日 復活節第6主日礼拝
「私達のために祈ってください」隅野徹牧師
聖書:Ⅱテサロニケ3:1~5

 今朝は、「聖書日課」のうち、テサロニケの信徒への手紙Ⅱ3章1~5節からの部分を選びメッセージを語ることにしました。

 テサロニケの信徒への手紙は、使徒パウロが書いたものです。この手紙がかかれた背景にあるのは「キリストの再臨や終末、神の審判といったものがいつ起こるのか」という不安と緊張だと理解されています。

 テサロニケの教会には厳しい迫害があったと言われています。「いつまで、この苦しい思いが続くのか…」という試練にあって、テサロニケの信徒たちは「主はいついつ来るのだ!」とか「いやもうすでに主の日は来たのだ!」という意見が飛び交い、「混乱状態」に陥ったと言われています。

 そのような中で、パウロは「落ち着いて、目の前の一日一日を、神・キリストと共に歩むことの大切さ」をこの手紙を通して伝えているのです。

とくに「主の前に出る日を意識しつつ」一方で「自分が救われていることに確信を抱き、その救いの希望の中に堅くとどまることを教えている」のですが、今回の箇所の3章1~5節では、とくにそのことが色濃く出ています。

私たち山口信愛教会も、そして集われているお一人お一人も今現在多くの苦しみを抱えています。しかし、この手紙でパウロが言おうとしているように「主の前に出る日を意識しつつ」一方で「自分が救われていることに確信を抱き、落ち着いて、目の前の一日一日を、神・キリストと共に歩む」ことを目指してまいりましょう。そのためには何が大切なのかを、今日の箇所の御言葉から皆様と共に考えられたら幸いです。

先に、今日のこの礼拝で私が最も!皆様の心に刻んでほしいと思っていることをお伝えします。それは「人に祈って助けてもらうことの大切さ」です。

皆さんは自分から「他のクリスチャンに、祈りをお願いした」経験はありますか?

私が平安無事でいられるように、祈って下さい…という感じではなく、具体的に「自分の状況を、他のクリスチャンに打ち明け、そして分かち合ったうえで」細かく「とくにこのために祈ってほしい」と頼むこと…これは非常に大きな力になると私は信じています。

2か月に一度、この教会のこひつじルームや集会室を借りて「KGK キリスト者学生会」という若いクリスチャンたちの集いが、土曜日に行われていることをご存じでしょうか? 私は大学1年生のときから、この「KGK活動」によって大きく養われましたので、今での思いをもって関わらせていただいています。

KGKのよいところは沢山あります。明るく、楽しく聖書を学ぶこともそうですが、わたしは何より「祈り合うことをみんなでする」ということを伝統的に大切にしているところが素晴らしいところだと感じています。先日行われた、集いでも、それぞれの近況を聞くとともに「祈りの課題」これを「祈りのリクエスト」というのですが、それぞれ聞き、祈り合うということをしました。 皆様もぜひ「他の人に祈りのリクエスト」をして下さい。 牧師に伝えて下さるなら、心込めて祈らせていただきます。 1  

 話が少しそれましたが、今日の聖書箇所でも、パウロがテサロニケの信徒たちに対し「自分たちのためにも祈ってほしい」とお願いしていることが分かるのです。パウロは今回の箇所で「二つ」祈りのリクエストをしています。まず後の方にでてくる祈りのリクエストのほうから見てまいりましょう。それは2節から5節から見て取れます。

 (※2~5節を読みます)

パウロの「後に挙げた方の祈りのリクエスト」は、パウロたちが「道を外れた悪人ども」の手から救い出されるようにということです。それは2節から見て取れます。

新改訳では「私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように」となっていて、こちらの方が元の意味に近いかもしれません。

「ひねくれた悪人ども」とは、パウロの教えを否定したり、あからさまにパウロの人格を否定するようなことを言って、その働きを妨げていた人たちのことです。パウロの教えが間違っていると言って混乱させていたのです。実際にコリントの教会にはそういった人たちがいて、パウロが非常に悩まされたことが「コリントの信徒への手紙」からはっきりと分かります。

伝道には反対や困難は付き物です。しかし、時としてそれが福音宣教の大きな足かせになってしまうこともあります。だからパウロは、自分の保身のためではなく「あくまで福音の前進のために」、悪人たちから救い出されるように祈ってほしいと訴えているのです。

でも…こうした困難な中にもパウロは、「ある確信」をしているのです。それが3節から5節で見て取れます。それは「主は真実な方である」ということ、そして「信じる者たちを強く立たせ、悪い者から守ってくれる」という確信です。

人間は真実でなくても、神・イエス・キリストは常に真実なのです。頼りにならない人間に依存しないで、神に信頼する。たとえ、目に見える現実は、「人間の悪が横行し、善が飲み込まれている」と感じたとしても、目に見える現実を超えて「真実なお方である神が、信じる者たちを強め、そして悪から守って下さる」のです。

その「悪からの守り」は、最終的には、私達が天に凱旋して神と相まみえる時に完成します。しかし、悪との戦いが多い、この地上の歩みにおいても「最終的な、神の悪からの守りに希望を置くことができる」のです。そのことをパウロは「自分たちもそうであるし、同じ主を見上げているテサロニケの信徒たちもそうなのだ」と語ります。

そこからパウロは「テサロニケの信徒たちに対して持っていたもう一つの確信」について語ります。それは、4節5節にあります。

テサロニケの信徒たちは、パウロたちが伝えた福音を神のことばとして受け入れました。そして、その教えに堅く立ち、それを守り、実行していたのですが、パウロはテサロニケの信徒たちが「これからも変わらずにそうしていく」ということを確信していたのです。

彼らがそれを信じて終わりではなく、これからもずっと信じていくという確信がパウロにある…それは素晴らしいことだと感じます。

「かつて信じていましたが今は信じていません」とか「一度は心燃やされて救われた証しを述べましたが、もう過去にやったので、この先はやりません」ということは、明らかに主の御心ではありません。今すでに受けている恵みに立ちつつ、これからも続けていくことが主の御心であることは確かですし、この4節でのパウロの言葉も、強くそれを裏付けるものです。

そこから最後の5節で、「どうか、主があなたがたに、神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」と祈っているのです。

私たちもこのような確信を持たせていただきましょう!

困難な中にあっても、神の愛とキリストの忍耐が「私たちの心に深く宿る」ことで、昨日よりも、より強く!「主と、主の言葉とともに生きる」そんな私たちであることによって「悪の力に対し、最終的に勝利できる」ことを覚えましょう。

残りの時間、今日中心である1節の言葉をじっくりと味わってメッセージを閉じます

一つ目の祈りのリクエストは1節にあります。主のみことば、つまり「キリストの十字架と復活による福音」が、テサロニケと同じように「早く広まり」、そして「神・キリストがあがめられるように」ということです。

「速やかに宣べ伝えられ」という言葉の「速やかに」という言葉の原語は「スポーツ用語の走る、駆け抜ける」という言葉だそうです。

パウロも私と同じで、スポーツ好きとして知られ、聖書の言葉になっている「各教会への書簡」の中に、多くのスポーツ用語が出てくることで知られています。

ここで「走るようにして、福音が宣べ伝えられる」という言葉が敢えて使われた理由、それは、テサロニケの町において福音は「噂がまわる」ような感じで広まったのではなく、多くの信徒の足が用いられて、まさに「駆け回るようにして」、キリストの十字架と復活による福音は伝えられたからです。

 この手紙を書いたとき、パウロは「ギリシャのコリント」にいました。コリントの教会はパウロの開拓伝道によって誕生した教会ですが、様々な問題を抱えていました。

とくに、キリストを受け入れて洗礼をうけた信徒たちの多くが、救われる前と変わらない「罪にどっぷりとつかった生活」をおくっていて、キリストの御命令である「行って、次の人に罪の悔い改めと、キリストを信じ受け入れることによって赦され、永遠の命を受けられる恵みを伝える」ということを全くしなかったのです。

パウロは、一生懸命、足を使って、それこそ走るようにして「コリントの町の人たちに」福音を伝えようとしていたのですが、コリント教会の信徒たちは「不協力」だったのです。

そのこともあって、パウロは「テサロニケの信徒たちに」、コリントの町でも「多くの人の足が用いられ、福音が陸上の選手が駆け回るようにして、広がるように!」と祈りをリクエストしているのです。

皆さんの目から見て、山口信愛教会はどうでしょうか? テサロニケ教会のような感じでしょうか?それともコリント教会のような感じでしょうか?

今朝は、皆さんの祈りのリクエストをお聞きすることともに「私たち牧師の祈りのリクエストを皆さんに知ってほしい」と願っていますので、平日の牧師についてすこしお話しさせてください。

平日は、諸集会や、信徒訪問を行っている時間以外、ずっと机について本を読んで説教や祈祷会の準備をしているのではありません。ご存じない方も多いと思いますが、町内会でのお世話に奔走したり、ボランティアでこどもたちにスポーツを教えたり…そんな風に「足をつかって動き回っている、駆け回る」時間が本当に多くなってきています。

香川にいた頃は「こんなことをしていては説教準備がまともにできない」とマイナスに考えていましたが、今は「むしろ動き回って、牧師としての自分が少しでも周りの方々に認識されることの方が、福音伝道のために有効なのではないか」と思うようになってきました。とくにコロナで人と人とが分断され、交わりが希薄になっている今だからこそ、主の愛を知っている私が「この町を駆け回る」ことは大切なことだと示されています。

皆様におなじことを神が望まれているかは分かりません。もう「動き回ることが困難だ」という方もあるでしょう。 そんな方にはぜひ「福音を携えて、この町を駆け回る、牧師のために」ぜひ祈っていただきたいのです。

欠けがあり、弱い牧師ですが、それでも、一歩ずつでも「主の言葉を速やかに届ける、足となれるように」ぜひ祈って支えて下さい。

このようにして、皆で祈り合い、支えって、そして「福音宣教も」自分には関係ないではなくて、それぞれできる支えをすることで「皆で共に担って」まいりましょう。

(祈り・沈黙)