「ごく小さな事に忠実であれ」4/26 隅野徹牧師

  4月26説教 ・復活節第3主日礼拝
ごく小さな事に忠実であれ
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書16:1~10

 先週まで、主イエスの受難と復活のメッセージを聴いてまいりました。その前までは、しばらく読み進めているルカによる福音書からのメッセージをしてまいりましたが、今週から再び「続けてルカによる福音書からのメッセージ」を聞くことにします

 今15章の終わりまで来ました。 本日は16章の頭の箇所で、不正な管理人のたとえ」です。イエスがなされた「たとえ」の中でも「わかりにくいもの」の一つとされます。 しかし、何度かお話していますが、「イエスは、一体なぜ、こんなことを言われているのか?」と私たちが疑問を感じるような箇所ほど、実は深く、大切なメッセージがつまっていることが多いのです。

 世界の諸教会にとって、今は大きな転換点といえる時だといえます。そのような中で、私たちが大切に覚えるべきこととして、この難解な聖書箇所からメッセージを聴きましょう。

 まずイエスがなされたこのたとえ話のあらすじをお話しします。1~8節をご覧ください。

 ある金持ちに「一人の管理人」がいました。管理人というのは、主人の財産と商売の一切を託され、取り仕切っている人です。信頼されてその務めを与えられているのです。しかし、その管理人が主人の財産を無駄遣いしてしまいました。

 この「無駄遣い」が故意なのか、それとも悪意はなく「ミスを犯し結果的に無駄遣いとなったのか」、そして「いくらぐらいの無駄遣いだったのか」については解釈が分かれます。 しかし、確かなこととして私たちは次の2つのことを心に留めたいと願います。

 ①つ目は「無駄遣いを全くしない」完璧なひとはどこにもいないということです。新共同訳には「不正な管理人のたとえ」とあり、いかにも「横領とか大罪を犯した人」のようなイメージで取ってしまい、「私はイエスの譬えの中の管理人ほど悪人ではない」と思うかもしれません。しかし私たち人間は皆、失敗をします。気づかぬうちに「人のものを無駄遣いする」ことはよくあるのではないでしょうか。ですのでこの管理人を「どこかの遠い人ではなく、身近な存在として」御言葉をきくことが大切です。

 そして②つ目です。それは厳しいですが「無駄遣いをした」というその事実は残り、消えることがないということです。2節に管理人は「主人から問われることになった」とあります。これぐらいの無駄遣いはばれないだろう…とか見逃してもらえるだろうと人間が思うことでも、神はすべてご存知です。

 そして行為に対して「報告をさせる」、つまりきちんと目を向けさせることをなさるのです。このたとえ話では、私達の失敗に対して、「ただいいよ、いいよ、気にしないで」と見逃されるのが神ではない!という厳粛さも教えられます。

 3節をご覧ください。そのような「失敗に気づかされた管理人」はいろいろと考えます。そして、ついに名案を思いつきます。それが4節です。「そうだ!こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」

 彼はすぐに、計画を実行に移しました。それが5節以下です。主人に借りのある者を一人ずつ呼んで、まず最初の人に言いました。「わたしの主人にいくら借りがあるのか」。その人は油百バトスの借りがありました。百バトスとは約2300リットルのことですから…おそらく商売における取引きの話でしょう。

 その後、管理人はなんと!証文の額を半額にしてしまったのです。減額された人は大喜びしたに違いありません。そして次の人にも同じようなことを彼は言いました。

 このように自分の立場を利用して、管理人は自分の今後のために備えました。イエスはこのたとえの最後、8節で「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」と語られ、教えを締めくくられています。

 さて…この話を通して、主は何を語っておられるのでしょうか。

 私は、鍵となるのが8節後半の「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている」という言葉だと考えます。

 これを誰に対して話されているかも重要です。1節の最初で分かる通りこれは「弟子たちに対して」語られています。そして8節の最後に「光の子」ということばを敢えて出されているように「私達教会につながる一人ひとり」に語られているのです。

 主人は何も、この管理人の失敗、過失をほめたわけではありません。「抜け目のないやり方」…直訳すれば「賢く行ったこと」をほめたのです。 管理人の賢さとは何かというと…それは「終わりに備えた」ということです。成り行きに任せるのではなく、また「自暴自棄になるのでもなく」「何とかならないか!」と必死に考え、実行したのです。

 彼は管理人としての「終わり」に直面していました。しかし、未来が開けるように、終わりの時までに自分の出来ることを探したのです。 彼はこの時まだ管理人として、主人の名において行動する権限をもっていました。ですので、それを「どう用いるか」真剣に考え、実行しました。決して諦めていない! そこが大切なのです。

 イエスが譬えられたこの管理人は「もう何もできることはない。すべてがおしまいだ…」となってしまいそうな状況で、泥臭く!できることを探し、実行しましたが、まさにこの姿勢の大切さをイエスは弟子たちに教えようとされたのです。

 そして「光の子」として譬えられている私達クリスチャン、あるいは「教会につながる一人ひとり」にも、この世で泥臭く、あきらめずに懸命に生きていこうとしている人々の姿から学ぶことがあるのだ!と教えられるのです。

 教会につながる多くの人々は「この世の中で証しをしていくために、まじめに生きなければならない」という思いがあります。それは良いことですが、時として「あまりにも真面目過ぎて、小さくまとまりすぎ」であることを顧みる必要があります。とくに真面目な日本のクリスチャンにはその傾向があります。でもよいところはそのまま残しつつも、イエスご自身を通して、御言葉を通して変えられていかねばところも多くあります。

 お知らせしているように、来週から山口信愛教会でも「牧師のみでの礼拝」という形をとることになりました。皆様にはその様子を配信したり、あるいは事前にお渡しした説教原稿、週報を通してお家で礼拝を守っていただくこととなります。

 おとなしく家にいなければいけない今の世の中の情勢。それでも、何も考えずにボッと過ごすのか、絶望して過ごすのか…逆泥臭く「何かできることはないか」と考え小さなことでも実行するのとでは大きな違いです。

 今この世でも苦しい状況の中で泥臭く、必死にできることしている人は沢山います。たとえばお客が来なくなった飲食店が、お弁当を作って配送したりしていることは皆さんご存知でしょう。ライブで演奏が披露できなくなったミュージシャンや、試合ができなくなったスポーツ選手がインターネットを通して配信をしたりしています。

 そのように多くの人が今、必死にできることを探し、実行していますがそれは… 危機的な状況で終わりが意識される状況の中「このままでは終われない!」という執念なのではないでしょうか。この姿勢を私達も見習うように!主イエスは、ちょうどこの箇所を通して私達に語りかけておられると取っていただいたなら幸いです。

 先の見通しが全くたたない中、山口信愛教会も次に礼拝を持てるようになるのがいつなのかわかりません。私達も「綺麗に、教会活動を終えて、休んで…それでよいのでしょうか」 次に礼拝が再会できて、皆で神の御前に出られるようになるその日が来るまでに「神が求めておられること」はそれぞれに必ずあるはずです!

 大切にしたいのは10節のみことばです。

 今のこの状況での、祈りの一つ一つ、 家で礼拝することを通しての家族や友人への証し、兄弟姉妹のことを気遣って出す手紙の1枚1枚、一回一回の電話…これらは「小さい事」のように思えて、実は「とてつもなく大きな事」なのです。

 少年が差し出した2匹の魚、5つのパンを用いられた主が、私達のする「小さな事」の一つ一つを必ず用いて下さること、それが「天国での永遠の命につながっていく」ことは間違いのないことです。 神に絶望するのではなく、また神を礼拝することに対して怠惰になるのではなく、ぜひ現状においてできることを、祈りつつよく考え、実行しましょう。とくに「身近なご家族への証し」「身近なご友人への証し」は「いままさにすべき時だ」と強く示されます。ぜひ!よろしくお願いいたします。

 最後に、そのことが深く教えられている9節を味わってメッセージを閉じます。

 イエスは言われます。「そこでわたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達をつくりなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。

 ここで「作りなさい」と教えられている友達。それは私達の周りにいる隣人一人ひとりでありますが、それは究極「神ご自身と友達になる」ということと繋がっているのです。マタイ25:40の「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という御言葉が示す通りです。

 自分のことだけを考えて、神から与えられた時間や労力や財を費やしているならば、それは神と隣人を愛する生き方ではないですし、神が悲しまれる生き方です。「不正にまみれた富で友達を作れ」という言葉は過激な表現ではありますが、生かされているこの時に「与えられたもの」をどう使うかを考える上で、大切なメッセージなのです。

 究極は「神の御心に従って人に与えたもの」が、自らを永遠の命へ、つまり天国へ導くことになる、そうこの御言葉は示すのです。キリストの十字架による犠牲、その愛を知った者として、厳しい現実の中でも「神を愛し、隣人を愛していきる」…それは何も考えずにただ呑気に休んでいるだけでは決してできないのです。

 神に委ねていただいたものを用いて、「よく祈り、よく考えて」今自分に出来る小さなことをしていく…それは私たちの命が終わり、主にお会いする時につながるということを心にはっきりと刻み、一日一日を大切に歩んでまいりましょう。