3月8説教 「救いは自らの力によらず」(受難節第2主日礼拝)
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:エフェソの信徒への手紙2:4~8
先週から、教会の暦では受難節に入りました。イエス・キリストの十字架の苦しみ、その苦しみを通して私たちに何をして下さったかを覚えるのが「この期間」今年は示されまして「エフェソの信徒への手紙の2章」から、続けて語ります。今日はその2回目です。使徒パウロが、自分が開拓した「エフェソの教会の信徒たち」にあてたこの手紙は、ローマで投獄されたときに書かれたもので「獄中書簡」と言われたりします。今回も「イエス・キリストの十字架の御業によって私たちに与えられた恵みについて」味わいたいと願います。
先週は、1~3節を中心的に味わいましたが、少しおさらいをします。
1~3節を簡単に目で追って見て下さい。
ここでは、3節の最後にある通り「人間は皆、生まれながら神の怒りを受けるべき者だ」ということが語られています。その理由は2つ語られています。
一つ目は2節です。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち不従順な者たちの内に今も働く霊、つまりサタンに従い、過ちと罪を犯して歩んでいる」という理由です。二つ目は3節です。「以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた」という理由です。
悪魔・サタンは目には見えないうちに「神に不従順な私たちの心の中」に働きかけて正しい道から引き離そうとする、神の御心から遠ざけようとするのです。そしてこの世は目には見えないけれども、気づかないうちに「悪魔・サタンに支配されるのです。
これを書いているパウロ自身もこれに当てはまると言っているということをお話ししました。パウロはキリストを迫害していましたが、これも「悪魔・サタンに導かれた肉の仕業だった」ことを認めているのです。
「神の御心だと信じて行った行為」にさえも付け込み、気づかないうちに肉欲の赴くままに行動さえるのが悪魔・サタンなのです。私たちが影響を受けないで済むほど弱くないのが「悪魔・サタンの力」なのですが、その「サタンに影響された私たちの本当の状態はどうなのか」というと、それは1節にあるように「死んでいるのと同じ」なのです。 肉体的に生きていても霊的には、心の面では死んでいる…私たちは「本当はそういう状態なのだ!」と聖書は示します。
しかし、この状態は変えられることが可能なのです。霊的に死んでいるような私たちも「生きる者として変えられる」ことができる、それが4節以降に書かれています。 先週も軽く4節、5節に触れましたが、今週は深く4~8節を味わいたいと願います。
まず4節、5節です。
この2つの節では、罪の中に死んでいた私たちに対し、それでも神がどんなことを為してくださったのかが「4つの言葉」で表されています。その4つの言葉とは、1つ目が4節の「憐み豊か」という言葉、2つ目も4節の「わたしたちをこの上なく愛してくださる」という言葉、3つ目が5節の「罪の中に死んでいた私たちをキリストと共に生かしてくださる」という言葉、そして4つ目も5節の「恵みによって救ってくださる」という言葉です。
まず4節の二つ「憐み深い」と「この上なく愛する」を掘り下げます。
先ほども振り返ったように、私たち人間は「罪まみれで、神から怒りを受けるべき者」でした。しかし!神は「罪に対して怒る」というまさにその理由をもって、同時に「私たちを憐れんでくださった」「愛してくださった」のです。
山口信愛教会の礼拝では何度も「神の愛は、無価値なものをそれでも無条件で愛するアガペーの愛だ」とお話ししてきましたが、ここでの愛はまさに「アガペー」なのです。本来、罪のために神の怒りを受けるべき私たち一人ひとりに対し「怒りではなく愛を与えて下さった」のは、神の憐み以外の何物でもありません。このことに改めて感謝しましょう。
そして罪人である私たちを、神が「愛し」「憐まれた」その結果どうされたのかが5節に現れています。
ここでは「キリストによる一方的な恵みによる救い」が「キリストと共に生かす」ということばで表現されているのです。十字架に架かり、すべての人間の罪の身代わりとなって死なれたキリストが、死の力を打ち破って復活してくださった…その新しい命に私たちも与れるというのです。
罪に死んでいた私たちが、それでも復活の命をいただくことができるのですが、それは「生けるお方であるキリストが、私たちに歩み寄って下さり、私たちを自らの交わりの中に引き入れて下さったから」に他ならないのです。
これは今日の説教題に着けた通りです。8節に 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」とある通り、神からの一方的な恵みによるのです。
私たちが救われるのは「その恵みを信じる、信仰すること」のみなのです。
私たちは「もともと神から怒りをうけるべき罪人だったのに、キリストが自ら罪人の私たちに歩み寄ってくださった。そして私たちはキリストと共に生きることができるようになった」ことは、キリストが十字架で息を引き取られる場面にも表れています。
もう一カ所の聖書箇所であるヨハネによる福音書19章の28節から30節を見ましょう。(新約聖書 P208です。)
30節の「成し遂げられた」という言葉。これは「神から怒りをうけるべき罪人だった私たち」が、滅びから生きる者へ変えられる「救いの計画が成し遂げられた」という意味です。
私たちの側に「救いの恵みを受ける要素」は何一つありません。神の独り子が痛みを負って、その命を犠牲にされる価値など無いのかもしれません。それでも主は私たちが「生きるための救いの業」を成し遂げて下さったことを覚えましょう。
もう一度エフェソ書2章に戻りましょう。(P353をお開きください)
6節と7節を味わって、メッセージを閉じます。
6節では、キリストを信じることによって恵みを得たものが「ただ生かされる」というところで留まるのではなくて、天の王座に着かせてくださるのだという希望がかたられています。
罪人である私たちが、キリストを救い主だと信じることによって「特別に義とされ、天国に行くことができる希望は」聖書の何カ所かにはっきりと示されていますが、このエフェソ2章6節もその一つです。
ただ罪赦されてそれで終わりではなく、天で王座に着かせていただける、神と生きた交わりを持たせていただけるとは何と幸いでしょうか? 朽ちることのない「本物の希望」がここにあるのです。
そして7節です。ここに語られているのは「私たちに示されたこの恵み、いつくしみを、神はこの先全世界に示そうとなさっている」ということです。
ここに「限りない豊かな憐れみ」とあります。神はご自身の愛を「すべての人に現わそうとされている」のです。すでに恵みを知った一部のクリスチャンだけが「信じて、救われて、天国にいってくれればそれでよい」とは思われていないのです。
この神の御心を私たちも心に留め、証ししていくべきではないでしょうか?
世界は今、騒ぎ立っています。不安に満ち溢れています。しかし、私たちは目の前の見える現実が日々揺れ動いても「変わらない、神の慈しみと恵み」を知っています。
十字架にかかり、救いの業を一方的に成し遂げてくださったキリストを信じることにこそ朽ちることのない希望があること、罪に死んだような私たち人間も、キリストと共にいき天国へいくことのできる確かな希望があることをしっかりと信じ、証ししてまいりましょう。