12月10日 降誕前第3主日礼拝
「聖霊に導かれて書かれた神の言葉」隅野徹牧師
聖書:ペトロの手紙 二 1:16~21
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先週からクリスマスを待ち望む「待降節」が始まりました。
これから毎週、クランツのキャンドルに1本、火が灯されています。この数が日曜日ごとに1本ずつ増えて行き、私たちはイエス・キリストの誕生を「待ち望み」救い主のお生まれを喜び祝います。
一方で忘れてはならないことがあります。イエス・キリストは、「過去の救い主」であるのではなく「このあと私たち一人ひとりの前にこられる救い主である」ということです。インマヌエルの主、私たち一人ひとりと共にいて、共に歩んでくださる救い主がイエス・キリストなのです。ただこの世に来られて、それで終わりなのではなく、私たちを未来に向かって導いてくださる…それが「イエス・キリスト」です。
私たちの生きているこの世の現実は厳しいです。戦争が止みませんし、自然災害も多発しています。私たちの身近なところでも、心や体調の苦しみを負っておられる方が多数あります。しかし!目に見える現実を超えて、救い主イエス・キリストによる「救いがもたらされる」そのことに希望をもっていきていくことができる、そのことを今回の聖書箇所を通して、味わってまいりましょう。
まず16節の一つ目の文、そして後ろの20節、21節から読んでまいります。
今日のメインのテーマとして取り上げるのが「十字架にかかり、復活され、今は天におられるイエス・キリストが、私たちのもとに来てくださる」ということですが、これは旧約聖書からずっと預言されていることです。
しかしながら、この「ペトロの手紙Ⅱ」が書かれた時代、このこと、つまり「イエス・キリストの再臨」のことを「ありもしない作り話だ」と言い放つ偽教師が表れ、教会を混乱させたのです。とくにその偽教師たちは「聖書の一部分だけを切り取って教え」そうでない部分を「ウソだ、読む意味がない」などと「ひとりよがりな聖書解釈」を押し付けたようです。
それに対してペトロは反論しています。聖書の預言は「人間の意思に基づいて語られたのではなく、それを記した人々は聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだ。だからこそ、何一つ、自分勝手な解釈をしてはならない」ということです。
全くその通りですが、私たちも聖書を「一部は避けて通る」というようなことがないようにしたいものです。とくに「再臨・終末・審判」などは、読まずに避けることがどうしても多くなりがちな箇所です。
牧師の側からも「語るのが難しい」箇所ではあります。理解も人それぞれ「捉え方に違い」がうまれて当然だと私は思います。そこを避けずに、つまり「わからないなりに」読んでまいりましょう。
「自分勝手に解釈しない」とは「聖書が何を言っているかわからない」ことに強引な解釈をしない、ことも大切になるのではないでしょうか。
私たちは肉眼で「イエス・キリスト」を見たことがありません。そのキリストを信じ、会いまみえることを待つことを聖書は教えているのです。それは大変に困難なことであるのは間違いありません。
マルコによる福音書13章などに記されていますが、イエスが私たちのまえに表れられるときは「神の子であり救い主であられることを分かるようにされる」といわれていますが、それも私たちが「信じるしかない」ことです。
「神の独り子であり、救い主であるイエス・キリスト」このお方についても、私たち人間が完全に捉えることはできませんが、しかし「聖霊に導かれてかかれた聖書を通して、私たちはこの方について知ること」ができます。
クリスマスにこの世に来てくださったイエス・キリストは「過去の人」ではなく、私たちがこの後、完全に会い、そして共に歩むことのできるお方だ、ということを覚えていましょう。
それを「覚えること」によって「独り子をお遣わしになった神の思い」も、より心に迫ることができると信じています。
続いて17節から19節をお読みいたします。
ここでペトロが語っていることは、マルコ9章など、福音書に記されている「山上でのイエスの変貌」の出来事です。
イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られます。そこでイエスの姿が彼らの目の前で変わります。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声がしたと言われています。
ペトロは、イエスに対して「これは私の愛する子、私の心に適う者」という神の声を聞いたと記されています。
救い主がこの地上におくられる、その預言はユダヤ人として生きて来たペトロにとってずっと心にあったことでしたが、この「山上の変貌」の出来事を通して、預言の言葉はより確かなものとなったのです。そのことも19節の表現に繋がっていると思います。
19節の言葉のとおり、私たちが生きているこの世は罪や苦しみ満ちた暗い夜のような感じです。しかし、イエス・キリストが私たちの前に来られる時、その暗闇は終わるのです。
世の中には、「イエス・キリストが歴史上、人間として存在したことは信じる。」という人は多くいますが、「よい教えを伝えたあと、十字架にかかって処刑された、宗教指導者」として捉える人が多いのです。
そのように「一人間としてナザレのイエスを捉えるなら、クリスマスはただの人間のお誕生日お祝いにすぎない」ことになってしまいます。
クリスマスを祝うのは「イエス様におめでとう」というためではありません。
現実の生活の中で苦しみ、悩む一人ひとりに「共に生きて下さり、永遠の命に導いてくださる、救い主がきてくださったこと」を「一人ひとりがお互いに祝うため」なのです。
今日の箇所の17節、18節で表された「イエスの山上での変貌の出来事」は、イエス・キリストがただの人間ではないことを表したものなのです。
普通の庶民の子として、汚い家畜小屋で生まれ、大工として働かれたナザレのイエス。
力強く教えを宣べ始められてからも、弱く貧しい人たちと共に歩まれたナザレのイエス。 しかしその「ナザレのイエス」が、一人間ではないのだ、ということを自ら示されたのが、「山上の変貌の出来事」なのです。これを通してペトロは「イエスが私たちの前に再び来たもう神の子、救い主であるのだ! このことにこそ、希望があるのだ」と訴えたのです。
最後に、私たちがイエス・キリストに会いまみえる場面、再臨について「イエス自らが教えられた」聖書箇所を読んで終わろうと思います。 皆様、新約聖書のP89のマルコによる福音書13章の24節から27節を開けて下さい。
再臨・終末に関しては、聖書は「比喩的、黙示的」な表現が多く、私たちの理解を超越するものであります。「生きている間にキリストに会うか、それともこの世での命を終えた後にキリストにあうか」ということでの理解も、明確に書かれていないことがあります。 ですので、クリスマス礼拝前の12月20日の聖研祈祷会でも取り上げて、少しでも、皆様とともに「思いを分かち合いたい」と願っています。
今回はシンプルにマルコ13:24~27をよみ、大切なことを1点だけお話します。
この中で、今日皆様に注目していただきたいのは27節です。
「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」 とあります。
クリスマスにこの地上に来られたイエス・キリストは「来られてそれで終わり」ではなく、「十字架に掛かられ、復活され、天にのぼられたあと、再びこられ、世界から選ばれた人たちを呼び集めて下さる」と書かれています。
勘違いしてしまいそうになりますが、ここでは「信心深い生活をして、苦しみを 最後まで耐え忍んだ者が救われる」と書かれているのではありません。そうではなくて「苦しみの中で 逃げることしかできず、散らされた者たち」がイエス・キリストによって呼び集められて救われるのです。
ある牧師が「十字架前後のイエスの弟子たち」にこの27節の言葉を重ねておられますが、わたしも全く同意します。
イエス・キリストが不当に逮捕された時、逃げ去ってしまった彼らが、主ご自身によってもう一度呼び集められて、初代教会の礎として用いられたのです。
同じように私たちも、自分の力強さや正しさによってではなくて、 神の子であり救い主であるイエス・キリストによって「特別に選ばれ、呼び集められる」そのことによって特別に罪赦され、救われる。そして既に天に旅立った人とも一つとなって「神・キリストと共に永遠の命を生きることができる」のです。
このように、今日は「クリスマスに人としてお生まれになった、イエス・キリスト」が、私たちを真の救いに導くために、「世の終わりに再び来られる」そのとき「私たちを愛の内に呼びあつめて下さる」という希望を聖書から見てまいりました。
このことが「聖霊によって導き、書かれた」聖書で証しされているのです。
暗闇といえるような状況でも、今見えている状況がすべてではありません。未来にむけて希望があたえられている、私たちは救い主であるイエス・キリストとお会いすることができる…そのことに希望をもって歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)