8月30説教 ・聖霊降臨節第14主日礼拝
「黙ろうとしない人」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書18:35~43
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今朝の聖書箇所は、ルカによる福音書18章の35節から43節です。
この箇所を読まれたとき、正直どんなことを思われたでしょうか? 「他に何カ所も出てくるイエスの癒しの話か…」と思われた方もあるでしょう。目が不自由だったこの人がイエスによって癒される今朝の箇所ですが、今日は、この人が「ただ癒されただけで終わった」のではないことを心に留めましょう。
すなわち「止められても、救い主イエスを求め続けた」こと。そして「イエスを神の子・救い主として信じ、体も心も癒された」こと。さらには「イエスに従う者とされ、イエスについて行く者となった」ことです。
新鮮な心で御言葉を味わっていただければ幸いです。
まず35節から39節の「4つの節」を読みます。ここではこの場面の背景が読み取れます。 皆様も情景を心に思い浮かべながら聞いてみてください。
エリコという町の近くで、目の不自由な人がイエスと出会います。この人は目が不自由でしたが、聴覚は研ぎ澄まされていたと思われます。周辺がいつもと違うのを感じ取って、「これは一体何事ですか?」と周囲の人に尋ねたのです。
そして「イエスが近くをお通りだ」ということが分かった彼は「大声で叫んだ」のであります。
39節で、叫ぶ彼を「列の先頭の人が黙らせようとした」とあります。なぜ静かにさせようとしたのか…その理由は少し先の19章11節から見て取れます。(146頁をお開けください)
この19章11節ですが、来週見るザアカイの箇所の直後です。人々がエルサレムに向かう道中のイエスの話に聞き入っている様子が分かります。人々にもそして弟子たちにも緊張感があったことでしょう。その中で語られるイエスのお話しを「これまでにも増して」耳を澄まして聞き入ろうとしていたのです。だからこそ、目の不自由な男を黙らせようとしたと考えられます。
しかし!彼は黙ろうとしませんでした。38節と同様「ダビデの子よ、私を憐れんでください」とますます叫び続けたのです。
この「ダビデの子よ」というイエスの呼び方には大きな意味があると私は考えます。
そうでないという説もありますが、私は目の不自由なこの人が「ダビデの子孫から救い主が生まれる」という約束を知っていたのだと考えます。そして近くを通っている「このイエスこそ」、聖書が約束している「神の子、救い主なのだ」という確信があったのだと考えます。
開かれなくて結構なのでお聞きください。エゼキエル書34章23、24、25節の「神からの預言・約束」に次のような言葉があります。
「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それはわが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。」
この人は、物乞いをしなければならないような厳しい環境で生きていましたが、それでも「研ぎ澄まされた聴覚で」大切な話を聞き、それを心に留め続けた。だから、「黙りなさい」と止められても、はっきりと確信をもって「このお方の前に進み出て、救いを得たい」と願えたのだと考えます。
目の不自由なこの人が、「ダビデの子孫から救い主が生まれるという神の約束」を、いつどこで聞いてのかは分かりません。会堂なのか、街角なのか、あるいは「家庭でなのか」…確かなことは、漠然と聞いたのではなく、大切な希望をしっかりと握れていたということです。
私たちも、この目の不自由な人の姿から学べたらと思います。ただ漠然と御言葉に触れるのではなくて、できるだけ心を研ぎ澄ませて、御言葉の恵みを握っていましょう。既に来られた神の子イエスが「旧約聖書の預言通り、ダビデの子孫として来てくださった」その救いの計画の壮大さや愛の深さを感じつつ歩めればと願います。
つづいて後半部分を見ます。 まずこの人に対し、イエスはどう接されたかということが分かる場面、40節から41節の一つ目の文を読んでみます)
イエスはエルサレムに向かわれていました。それは「全人類を罪から救うために、十字架に架かって死なれる」ためでありました。この時「世界のすべての人を救う」ことを深く考えておられたイエスですが、一方、目の前で「救ってほしい」と叫びをあげる、一人のことを心から愛し、ご自分のもとに招かれるお姿がここで見て取れるのです。
そして41節前半、「何をしてほしいのか」お尋ねになっています。これも大切なことです。
今は天におられ、私たちの祈りを聞いて下さる神の子イエス・キリストですが、私たちにも同じことを求めておられます。 全能の主は私たちが必要なものをすべてご存知です。それでも、「わたしたちにどうしてほしいのか」自分の言葉で祈り求めることを願われるのです。生き生きとした自分の言葉で祈りを積み上げましょう。
続いて41節後半と、42節をお読みします。
彼は「目が見えるようになりたい」と答えます。言うまでもなく、これは最も重要な祈りの課題でしょう。それを本気でイエスに願っているのです。目の前におられるイエスが「神の子・救い主だ」と信じている証拠ではないでしょうか。
42節でイエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われましたが、これは彼が「目の前におられるイエスを神の子・救い主と信じて、本気で求めていると認められた」からです。
ここからも分かる「イエスによる癒し」の特徴があります。聖書の多くの箇所で描かれる「イエスによる癒し」と、世の中一般の「癒し」が違う所はどこかというと…まずイエスへの信仰があって、その後で癒しがあるというところです。
この順番がとても大切なのです。さきに癒されたから、目の不自由な人が「イエスを信じた」のではないのです。ある聖書注解者は「癒されたあと、信じたのだったら、本当の服従を生むことはない。せいぜいご利益信仰を生むだけだ」と言っていますが私も同意します。
神の子イエス・キリストは私の救い主である!どんなに先が見えない状況であっても、私を最善に導いて下さるお方であることを信じます!! そのような思いをもってイエス・キリストの胸に飛び込んでいくとき、単なる体の癒しを超えた「全人格的な癒し」が与えられることを覚えましょう。
聖書に戻ります。最後に残った43節をご覧ください。私はこの節が今回もっとも迫ってきた箇所です。目の不自由だったこの人が「たちまち視力が回復した」だけに止まらず、「神をほめたたえながら、イエスに従った」と聖書は教えます。
別の聖書の訳では「従った」ではなく「ついて行った」と訳されていますが、こちらが元の意味だと言われます。つまり、目の不自由なこの人は「物乞いをしていた生活」から一変、イエスに着き従う者生活をするようになったということです。全く生き方が変わったのです。
伝説では、この人はペンテコステ後、初代の教会を支え、豊かに主の救いを証しし続けたと言われています。
ここに集う私たちですが、心身に何も不調がない…という人はほとんどおられないことでしょう。何かしら「癒しを祈り願っている私たち一人ひとり」にこの箇所を通して語られる教えを整理して、メッセージを閉じます。
この目が不自由だった人は、視力を失ったことに対し、神を恨んだことはあったでしょう。自分の境遇を嘆くことも多かったことでしょう。 しかし!それでも「神はダビデの子として私の救い主を与えてくださるのだ」という希望を持ち続けました。
私たちにも、「嘆き」「神に不満をいう」時は必ずあります。しかし、それでも天地創造の時から私たちを愛し、イエス・キリストを通して私たちを救おうとなさる「全能の神の救いのご計画」に身を委ねましょう。
そして、この人がそうであったように、イエス・キリストの前に出ようとしてもそれが妨げられることもあります。 (※とくにコロナ禍の今は…)
それでも求め続けるなら、救い主イエスは必ず心に留めていてくださいます。そして「私を信じて、全てを委ねますか」という招きをしてくださるのです。求め続ける私たちでありましょう。
そうするならば、身も心も全く癒され、主イエスとともに歩む「新しい日々」が与えられると信じます。どうか、イエスによる全き癒しがあることを信じ、この救い主にすべてを委ねて歩んでまいりましょう。 (祈り・沈黙)
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